29段目3番
LOSOについて
グラミーレコードがオーディションを兼ねてメンバーを集め、LOSOをデビューさせたのは1996年だ
しだいにLOSOはセークサン ・スクピマーイเสกสรร ศุขพิมายのワンマンバンドへと移行していく
セークは誰よりも歌が上手かったし、曲作りの才能が圧倒的であった
2003年に解散した セークが他のメンバーを見捨てたのは誰の目にもあきらかだった
その後もセークは心に残る歌を作り続けるが、いつしかクスリ漬けになり、すっかりふやけてしまうのだ
ふやけきったセークは見るに忍びないので、急遽方針を替えヌムหนุ่มについて語ろう
タイ人は子供が生まれると3週間を目途にその特徴を捉えニックネームをつける
<蓮の茎サーイブワสายบัว> < 蟻モッドมด>とかさ
面倒が先に立つと安易になる 例えばヌムだ
ヌムの意味は「若い男」だが、このあだ名を持つ男は芸能人にも一般人にも五万といる
ぼくは、一番身近なヌムに聞いた
「この曲、チャカヤーンシーデーングจักยานสีแดงを歌っているのは、いったい誰なのか?」と
ヌムはぼくをカセットや(もしくはCDや)へ連れて行き1本のカセットを買わせた
まだCDを嵌め込む機械を持ってなかった
カセットは片面だけだったが釘付けになった
ヌムが言うにはアルバムの売り上げでタイ新記録を打ち立てたそうだ
このアルバムが発売されたのは1997年 ヌムとの出会いは1992年頃だ
エークเอกは一番という意味 ヌムに劣らず多いあだ名だ
やがてエイズで死ぬことになるエークが、ぼくをドライブに誘った
エークの店は終わるのが24時 2時半にアパートへ来た
チェンマイラーム病院の看護婦4人(今でいう女の看護師)を、そのうちの1人の実家に送り届けると言う
だけれども、エークの連れ合いポームปอ้มに何か聞かれたら、
「二人だけだったと答えてくれ」と何度も念を押された
病院脇の路地でぼくたちは女の看護師を待った
ここを入って行けば地下駐車場の出口があり、その奥に看護師の寮がある
エークの車は荷台付き乗用車ロットグラバรถกระบะだ 当時タイでは乗用車より幅を利かせていた
この話がどういう伝手で回ってきたのかは知らない
看護師4人とエークも初対面らしい
最も若い子の名前がビーだった
名前を知ればその由来を必ず尋ねることにしていたのでそうしたら 「アルファベットのB」という返事だった
他3人の名前はすぐ忘れた その中にヌムの姉(多分30手前)がいてリーダー格だった
ぼくたちはナコンラチャシマー(セークの故郷でもある)にある姉の実家に向かった
ぼくは助手席に座っていた 原因は忘れたがとある町でフロントガラスにヒビが入ってしまった
修理屋とかガラス屋を何軒か回った
替えなければならないが、取り寄せるのに1日かかってしまう
その町に1泊を余儀なくされた
宿屋を捜す途中で踊っている一団を見かけた
宿は後回しにしてみんなも加わった 日本の盆踊りを思わせる
エークの隣で勧められるままにひたすら飲んでいたので、ここぞとばかり日光和楽踊りを踊ってみせた
細かいことを言うようだが、翌日フロントガラス代とし500฿払った
みんなで出し合った
「エークの車なのに」と思わないでもなかった
チェンマイと日本の間を行き来しだして、そんなに経っておらず、少しは話せてもタイ人同士の会話は聞き取れない
しかし、毎日のようにエークの店で飲んでるせいかエークの言うことは、かなり分かった
逆もまたしかりで、看護師たちが話しかけてくれば、エークがタイ語で、タイ語の通訳をするのだった
ヌムの姉の実家の外観は覚えていない
いちいちヌムの姉と書くのは大変なのでA子としよう
A子の家までどの道を通って来たのかまるで分からない
家の間取りも忘れている
ただシャワーは大きな瓶の水を用いた 台所の先にあったはずだ
タイには暑いと涼しいがあり、チェンマイには寒いもある
コラートの11月の水は冷たかった 頭を剃るたびどこかしらに血が滲んだ
3泊か4泊したが、お金を受け取ってくれないので奢るしかない
近場の店に赴いた その時ヌムを紹介されたのだ
A子の実家はA子の兄が世帯主だ
エークはこの男とトランプに興じ、かなりの金額を巻き上げたとあとで知った
見かけたとは思うが、どんな風貌だったのか?
ヌムはそこに住んでいなかった
ぼくたち6人以外に誰がいたのだろう?
2日目、近くにあるというピマーイ遺跡(11世紀に建立されたクメールの寺院群)に出かけた この時もヌムは参加しなかった
ナコンラチャシマー県はコラート台地の西端に位置する だとすれば東端はアンコールワットかも知れない
エークは1日中部屋にこもって賭けトランプをしている やることがなかった
看護師たちはどうしていたのだろう?
酒をちびりちびり飲れば、アパートの温水シャワーが懐かしい
「帰りたい」と誰かに言ったらそれが通った
「どこに行っていたのか?」とポームにしつこく聞かれた
とぼけたが、エークは白状してしまったようだ
ローイグラトンลอยกระทง灯篭流しの日、エークの店で飲んでいたら看護師4人が現れてぼくを誘った
店を閉めたらエークたちと見に行く約束があったので、断るしかなかった
それがビーと、このあとヌムが惚れることになるC子とちょいと太目のD子を見た最後だった
ナコンラチャシマーへのドライブから3年くらいしてヌムがチェンマイにやって来た
随分と長くいたはずだがどこに住んでたのかは知らない 訪ねたことはなかった
会うのはいつもエークの店だった 急ぎの時はアパートへ直接来た
仕事は何をしてたのだろう?「家具製品をメーソッドแม้สอดへ運んでいた」と聞いたような気がする
ナムプラーนำ้ปลาの行商はチェンマイに来る前だ
背中の引き攣れを見せられたことがある 「トラックの荷台に乗っていたら、暴漢が現われ、いきなり鉄砲で撃たれた」と
また別の折ヌムは言った
「C子が子宮の病気で入院してたので、何度も見舞いに行った」
時期はずれるがエークの店のデックスープに、ぞっこんだった時期もある
この二つの恋は成就しなかった ヌムは惚れっぽいが不器用だった
エークの店が立ちいかなくなり、彼ら一家は近所に引っ越した
ヌムは、まだチェンマイにいただろうか?
やがてエークはエイズで死に、ポームはバラック建ての飲み屋<コンティッドディンคนติดดิน>を開いた
直訳すれば(土地にくっつく人)だ 具体的な意味は知らない
屋台ラーメンは、最終的には店舗を持った
屋台を出したのはチェンマイヒルホテルのちょっと先だ
そのまた先の運河を渡った右手に跡地があり、そこを利用したのがคนติดดินだ
隣にはジャズレストランがあった 何度も押しかけたが、ヌムと飲んだ記憶はない
ポームにはソムチャーイสมชายという男ができていた
「一休には世話になりっぱなしだから、一度ご馳走させてくれ」と、ヌムが言ったのはいつ頃のことだったろう?
確かにエークの店でも、他の店で飲んだ時も勘定は、ぼくがした
A子がチェンマイ郊外に買った一戸建てに招待された どこから呼び寄せたのだろう? 二人の母親もいた 品のいい人だった
その家にもヌムは住んでいなかった だんだん縁遠くなり、気がつけば会わなくなっていた
もうチェンマイにはいないかもしれない
A子は今もチェンマイラーム病院の看護師だろうか?
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