2020年10月24日土曜日

山田太一の5本 その4 終わりに見た街(1982年版リメイク版は未見)

11段目9番

 丸茂重造



は同じ稲荷町2丁目の住人だった

おやじはチビで猫背だったが

重造はそこそこのガタイで江夏豊を色黒にしさらに渋みを加えたような

風貌をしていた

あいつは女にだらしがないとおやじは徹頭徹尾嫌っていた

宿命のライバルでもあった

日光市議会議員選挙で最下位争いするのはいつだってふたりだった

おふくろは他のことはこれまで通りで結構だがどうか選挙にだけは出ないでくれろ

と拝むように何度も願い出たが聞く耳は持たなかった

小学2年の帰り道、選挙カーがぼくを拾って家まで送ってくれた

その頃は大谷川で演説の練習をしすぎて血を吐いたおやじをまだ尊敬していた

晩酌はしなかったが会費制の集まりやただ酒が飲める機会があれば

ベロンベロンになって帰ってきた

おふくろに靴下を脱がせてぼくと相撲を取った

小学6年の帰り道、選挙カーはぼくを見つけたが

管理委員会がうるさくて乗せてあげることができない

とおやじは車の窓から言った

余計なお世話だった おやじを嫌いになりかけていた

おやじと重造はどちらが年上だったのだろうか

おやじはもうだいぶ前92で死んだが

重造はそれよりはるか以前に死んだのではなかったか

一緒に暮らしていた女が身まかるとしばらくの間寝込んでいた

そんな噂を耳にした記憶がある

近所だからすれ違うことがある

重造が向こうからやって来ると道を譲るようにぼくは歌うのをやめてしまった

その鼻歌には太刀打ちできなかった

高校時代に1度だけラブレターをもらったことがある

バスの中から時々見かけます いつも下を向き何か呟きながら歩いています

いったい何を考えているのでしょうか

呟いてなんかいなかった

歌っていたのだ

歩きながらあるいは何かをしながら歌うのは小さいころからの癖だ

6年1組の時清水君枝は

よもさんのせいで柳ヶ瀬ブルースを覚えてしまった 美川憲一は好きじゃないのに

と恨めしそうに言った

日光高校まで往復10キロの道程を3年間歩き通した

国道119号線を道なりに上がって行けば日高だが目先を変えるため

二社一寺の参道や境内を通り抜けた

東照宮表門の手前あたりでよく重造を見かけた

鶯の笛を売るのが重造の商売だ

ホーホケキョと吹き鳴らしながらのしりのしりと歩いていた

笛を咥えれば歌うことはできないが

その代わりだろうか

風向きによってぷ~んと酒の香りが漂ってきた





走る酔っ払いよも助がうたう

2020年10月19日月曜日

山田太一の5本 その3 ながらえば冬構え今朝の秋

 11段目8番


ドムリー



チェンマイで初めて借りたアパートはチョタナ通りからタニン市場を通り抜けて

100m先にあったがそれまではPKゲストハウスが定宿だった

その頃はまだ観光気分も滞っていて4泊5日のトレッキングに紛れ込んだりした

ぼくよりちょっと年下のオランダ人カップルとちょっと上のドイツの男と同じくらいの

30過ぎのスウェーデン年増とあとふたりか3人いたかもしれない

ガイドは25、6のナニがリーダーでヒトチという20前後の奴14と自称するナニの弟ドムリーの3人だった

14歳が本当ならベビーフェイスもいいところで身体も小さいから小学低学年にしか見えない

日本人だと言ったらぼくはいきなりニンジャになった

ドムリーという名はあとで知ったが本名だろう

タイ人はものごころがつく前につけられたニックネームで呼び合うが

ただそれを聞き取る能力はなかったから呼びかける必要がある時は対抗上こっちもニンジャとした

ある時ニンと省略したら心得たものでジャーと返してきた

ニンとジャーを数回繰り返した後ぼくはジャンになった

ジャン・ギャバンのジャンだ

おい、ジャン夕べ見たか、ナニとスウェーデン女がやってたぞ、ナニに乗っかって腰振ってたぞ

ぼくはタイ語はもちろん英語もできないがニンの身振り手振りは正確で気を回さずとも理解できた

落とすのと盗まれるのを心配するあまり現金はまったく持ってこなかったがオランダ人のアベックが仲良くビールを飲むのを目にするたび激しく後悔するのだった

ある区間をぼくを除いた参加者は象に乗った

雨季は明けきっておらず象たちの歩いたあとはどこもかしこもぬかるみで膝までずべり込みいちいち足裏でビーチサンダルを探る気力はない

夕方シャワーを浴びれば包皮の中にまで泥が忍び込んでいた

そういえばツアー会社で代金を払った時象に乗ることを強くしつこく勧められたような気がする

次の日からヒトチが履いていた運動靴を貸してくれたが靴擦れでまいった

ドイツ人は毎晩阿片を吸った

最後の夜は量が過ぎたのか長い時間のたうち回っていた

解散場所で荷台付き乗用車รถกระบะを降りるとごはんを食べようと金髪にそばかすのスウェーデン娘が寄り添ってきたがパスした

ナニとのナニが影響してるのは間違いないがそれだけではない

太腿が豊かでない女はタイプでないのだ

50の頃から夏4、5か月働いて冬をチェンマイで過ごすローテーションが確立したが30代は季節に関係なく金ができれば来て尽きれば帰って働いた

PKゲストハウスに宿を取るとどうしてわかるのか日を置かずにニンは必ず現れた

ガイドがない時は暇なのだろう、僕のベッドに勝手に横たわり時をやり過ごすのだ

追い出しはしなかったが歓待もしなかった

ヒトチは刑務所だ、クスリでやられたらしい、ヒトチもトレッキングのあと一度尋ねてきたがそれきりになっていた

ある時、いきなり女連れでやって来た、おいらのガールフレンドだが朝まで600バーツでどうだと言う

17くらいだろうか、セックスフレンドなのか?とは聞けない

普通こんなことはしない女とのことだがそれを頭から信用したわけではないがこんなことを言えば知性を疑われそうだがホントそんなことを商売にしている女にはてんで見えない

30年以上前だが当時としても600バーツは高くない

だが断わった

ニンに弱みを握られるのを恐れたのだ

そのままはいさようならではおとなげないというか、いや惜しい気がしたので食事に誘った

ぼくを真ん中に挟みニンの原付で行った、彼女の太腿が豊かかどうかを確かめる冷静さはなかった

天婦羅そばのそば抜きは天抜きだがタイの麺クィティオにも麺抜きがあってガオラオเกาเหลาと言うのを知った

それを肴にメコンウイスキーの丸瓶กลมを飲んだのだが彼女は飲んだのかどうだったか

飲んでるうちに勿体ないことをしてしまったという思いにどんどん捉われていったが男に二言はない

ぼくを送り届けると彼らは二人乗りで帰っていった

またある時、チャングモイ通りのぶっかけ飯屋で朝めしを済ませ堀端を歩いているとジャンジャンと呼ぶ声がする、見るとニンが赤い乗り合い軽トラรถสองแถวの後ろから手を振って乗れ乗れと合図している、で乗ったのだ

西洋人のカップルもいてこれからエレファントキャンプへ行くのだという、つまりガイドの真似事だろう

車代は無論のこと入場料も出さなかったが誰か代わりに払ったのだろうか?

まずは食事となったが食べたばかりなのでこいうところの酒は高いのだが奮発して缶ビール3本とメコンの量り売りを一杯だけ飲んだ

それから象のショーを見物したがトイレを捜しているうちに戻るのが面倒になってそのまま帰ってしまった

象キャンプは幹線道路をそれて5Kほど入った所にあるが通常乗り合い軽トラは走っていない、朝方乗ってきたのは貸し切りだ

1時間かけて107号線まで歩き黄色のチャングプアクバスターミナルまで行く乗り合い軽トラをつかまえた

夕方ニンがやって来た

何なんだ、ジャン、ちゃんといるじゃないか。今まで探しまくっていたんだぞ

とめずらしく怒りをあらわにして言う

川に落ちたんじゃないかって(そういえば小さな流れがあった)ファランのふたりと一緒になってあっちこっちを、何で黙って帰ったんだよ

ぼくは素直に謝った。ニンのタイプは心配なんかしないだろうと踏んだのだがおおいなる誤解だったようだ

タートンのニンの家にも行ったことがある

川の向こうはチェンライ県だが対岸に渡る船着き場があるので有名な所だ

ただニンの家から川は見えなかった

高床式住居だったような気がするが1泊したのか2泊したのかそれさえあやふやなのだ

クワンカーマー寺のデックワットเด็กวัดピーター(純然たるタイ人)も同行した、デックワットは寺に居候する代わりに雑用をこなす少年を指すがピーターはいったいいくつなのだろう

ぼくのとこへもニンと2度来たことがあってふたりでベッドを占領し昼寝を決め込んでいた

現在はチャングプアクのバスターミナルから直通バスが運行しているが当時はファーン止まりで乗り合い軽トラに乗り換えねばならなかった

ファーンで腹ごしらえを済ますとふたりは置屋へ出かけて行った

ちょんの間30バーツなのだと言う、チェンマイの街中にも50バーツのがあるにはあったがーー

誘われたが行かなかった、そいうところへはひとりで行くのがポリシーだ

クィティオ屋でメコンの平瓶แบนを傾けながら待ったがショートタイムのくせになかなか戻って来なかった

タートンにたどり着くまでにニンに頼んで軽トラを止めてもらい2度立ちションをした

さて両親と会ったのかどうだったか、まさか誰もいなかったということはあるまい

覚えていることはほとんどないがウイスキーだけは手放さなかった

ナニより上なのか下なのかもうひとり兄さんがいてしっかりと化粧を施した写真を見せてもらった

ナニと言えば結婚して日本にいるらしい、日本から来た手紙を見た、まだタイ語は読めなかったが奥さんが書いたのだろう差し出し人の住所だけが日本語で長蔵小屋内とあった

近くにお祭りが来てるとのことで出かけた、近くはなかった、10Kは離れていたろう

テント張りの店が立ち並び仮設の置屋まであった、例によって誘われたが拒否した

ぼくが迷子にでもなるのを心配したのか今回はふたりとも見送った

ちなみに3人の往復運賃は全額ぼくが払った

あたり前田のクラッカーだがPKゲストハウスの部屋にテレビがついてるはずはないし

トランジスタラジオを持ち歩くような男でもないので酒を飲む夕方までの時間を潰すに本を読むくらいしかない

なので週1のペースで以前はナイトバザールのとば口にあった貸本屋ナンシーブックに通った

チェンマイの地図を見ると中央にほぼ正確な正方形がありそれが旧市街で右辺の真ん中がターペー門になる、その上方100mにPKゲストハウスはあり、越してきたナンシーブックは下方100m地点ののたくった路地を四角の中へ100m入った場所にあった

経営してるのはナンシー(純然たるタイ人)と結婚したワタナベさんで隣はサクラという食堂になっていた

ワタナベさんから君はかなり排他的だよねと言われたことがある

PKゲストハウスは2階建てで2階に上がってすぐにテーブルが置いてありそこが日本人の溜まり場になっていた

1階が空いていれば1階を選んだがない時も日本人がたむろするテーブルは素通りした

本を借りたあとサクラでメコンを片手に将棋を指すのが恒例になったがその誰ともサクラ以外で顔を合わせることはなかった

1度日本へ帰りまた戻ってきたある日

将棋相手のワタナベさんがさっきから君をちらちら見ている男がいるよと言った

通りに目をやるとニンだった

見るからに山岳民族って感じだねとも言った

そうかニンは山岳民族なのか、だからガイドをしているのかと変に感心した

サクラの2軒手前はテラス形式のレストランになっているがそこで働くかたわらトレッキングの参加者を募っているのだと言う

翌々日その店でメコンより1ランク上のサングティップの丸瓶を飲んだ

同じテーブルに座りはしたが仕事中だからとニンは飲まなかった

5分の4ほど空けたのは覚えているがあとは空白だ

気がつくとタニン裏のアパートのベッドの上でおまけに床に吐いた残骸があった

別れ際住所と電話番号を教えたがニンから音沙汰はなかった

ナンシーブックの行き帰り店の中を覗いたがニンを見かけるのは稀でやがて潰れた

チェンマイだけでなくバンコクでも部屋を借りたことがある

スクムビット通りをチョンブリ方面に向かいバングナーの交差点を横切った右手にあった

日本人会で本を貸し出しているのを知り暇を持て余すと渋滞覚悟でバスに乗りサートゥン通りに出かけて行った

で、そのあとはタニヤのサウナエスポにしけ込む

シーロム通りがラーマ4世通りに突き当たる角っこはロビンソンデパートで地下は食料品売り場になっていた

その辺りをぶらぶらしているときっと小学生くらいの子供がスーパーのレシートをひらひらちらつかせながら近づいてくるのだった

買えということなのだろうがその日も接近してきた少年を振り払うように歩いて行くと

男とすれ違った

男はぼくを見て笑いかけた

ような気がした

あれっ!いまのはドムリー(なぜかニンではなく本名が踊り出てきた)じゃなかったか?とすれば一気に身長が伸びたことになるが

振り返ったが地下へ降りていってしまったのかその青年の姿は

影も形もないのだった





走る酔っ払いよも助がうたう

2020年10月17日土曜日

山田太一の5本 その2 岸辺のアルバム

11段目7番

 五木寛之と吉田拓郎



は俺の人生に最も影響を与えた二人だが
高校の時、拓郎がパーソナリティーを勤める
オールナイトニッポンかセイヤングかパックインミュージックに
いきなり五木寛之がやってきたことがある
予定されてた出演ではなく飛び入りだった
疾風のように現れて疾風のように去っていった
俺は大興奮したが二人は互いに好感を持たなかったようだ
井上陽水とは「青空ふたりきり」という対談集まで出しているのに
その後五木寛之が吉田拓郎について触れたことはほとんどない
そんなことを後生大事に時折思い出すのは俺ぐらいのもんだと
高を括っていたわけではないが
イヤびっくりした
ついこないだ、その時のやり取りを録音したものがアップされ
俺のパソコンにユーチューブのあなたへのおすすめの欄に
突如として出現したのだ
俺が抱いた印象に記憶に修正を施す必要はないようだが
もし俺が俺でなかったらそのアップされたものが
俺のパソコンに顔を覗かせることはなかったはずだ
大変な時代になったものだがそれをどのように受け止めるのか
測りかねている




2020年10月16日金曜日

山田太一の3本 その1 それぞれの秋

 11段目6番

エッコちゃん


近所で初めてテレビを入れたのは
路地一本隔てて並ぶ名無しさんの家だ
それからうちがテレビを買うまでどのくらいの時間差があったのだろう
覚えているのは大村崑の「とんま天狗」は名無しさんちの
縁側から見たということだ
あの頃夏休みには町内レクレーションと称した組内の日帰りバス旅行があって
阿字ヶ浦とか幕張の海水浴場へ行った
これはまったく記憶にないのだが将棋覚えたてのころ
そのバスの中でエッコちゃんのおかあさんにせがんで将棋を指してもらい
負けてしくしく泣いたのだという
名無しさんちには子供が三人いたが末っ子がエッコちゃんで
ぼくより二歳か三歳上だった
エッコちゃんのお兄さんとお姉さんは勉強ができて県内一の進学校に進んだが
二人の名前は忘れてしまった
またバスの中に戻るがぼくが調子に乗って
かあちゃんが申でばあちゃんが戌だから二人は仲が悪いのだ 
と口走ると面白がって、ひでおちゃんは頭がいいと褒めてくれたのも
エッコちゃんのおかあさんだった
下の姉と缶詰を前に缶切りが見つからず困っていた時のことだ
結局名無しさんちから借りようということになった
姉が出かけて行ったのだがエッコちゃんを伴って引き返してくると
エッコちゃんの目の前で缶詰を開け缶切りを返しお裾分けもせず
そのままバイバイしたのだった
エッコちゃんは不二家のお菓子のキャラクター
ほっぺたをいっぱいにして笑って見せる女の子にそっくりだった
ぼくが小学校五年か六年の時
エッコちゃんのおとうさんが事件を起こした
もうその頃は組内のバス旅行はなくなっていたのではないか
いや参加しなくなっただけのことか
その後、名無しさんちの周辺がひっそりとした感じになったのは
否めなかった
よしだたくろうが「元気です」をリリースしたのは高校二年だ
あれっ?いつのまにたくろうを掛けたんだろ?
と訝っていると「春だったね」は隣の名無しさんちの方から聞こえて来るのだった
土曜日や日曜の午前中はよく「元気です」の競演になった
隣から「旅の宿」が聞えて来るとここぞとばかりに窓を開け
「たどり着いたらいつも雨降り」のボリュウームを上げるのだった
ある日の夕方エッコちゃんが我が家を訪ねてきた
この前たくろうのコンサートに行ったんだけどその時の写真が
出来上がってきたの
ということだった
ステージで歌うたくろうの写真が三枚引き延ばされ
白い大きな封筒に入れられていた
名無しさんちはぼくが上京して何年か後に引っ越していった
おとうさんの刑期があけるのを待って越したのだという



2020年10月14日水曜日

山田太一の3冊 その3 見えない暗闇

 11段目5番

8っちゃん


やっちゃんはぼくになついでいた
やっちゃんには両親と妹とがいたがおとうさんは離婚するか死ぬかして
やっちゃんの周辺から知らぬ間にいなくなっていた
やっちゃん一家はある時期ぼくの家の隣の借家に住み
そこには風呂がなかったのでぼくんちが風呂をたてると親子三人で入りに来た
一緒に入ったことも何度かあった
そんなことでぼくになつきつきあいが始まった
お風呂の時だけでなくやっちゃんは頻繁に我が家に出入りした
やがてやっちゃん一家は東中学校の方に引っ越して行きぼくらは疎遠になった
引っ越す前の話だ
名無し坂の横手は今はシノハラ電気店だが昔はただの原だった
ぼくはそこで素振りをしていた 振りぬいたバットがいつのまにか後ろに来ていた
やっちゃんの頭を打った
血は流れなかったが広い範囲に滲んだ
やっちゃんは大声で泣いたがぼくを責めるそぶりは見せなかった
どうしていいかわからなかった
穴があったら入りたかったが穴はなかった
ほっとくわけにもいかず意をしおかあさんが働く福田ガラス店に連れて行くことにした
道中 逃げられたりしたら大変だと思ったのかやっちゃんはぼくの手を握ったまま離さなかった
四年生になるとやっちゃんが入学してきた
校内で見かけることはあったが言葉は交わさなかった
ただ一度渡り廊下のところですれ違っていったやっちゃんが
ひでおちゃん と呼びかけまたぼくの方へ駆け戻ってきたことがある
蹴躓き転んでしまったのだが記憶はそこでぷっつり消えている
高校生になった
中学の野球部の仲間に誘われ後輩の練習を見に行った
その中にやっちゃんがいた やっちゃんはぼくを認め照れくさそうだった
ぼくが野球部に入ったのは兄を真似てだがやっちゃんはぼくを真似たのではないか
その年の夏休みやっちゃんの勉強を見てくれとおかあさんに頼まれ引き受け
最初の日、野球部は辞めたのだとなんだか怒ったみたいに言った
やっちゃんは石原慎太郎と同じ目をぱちぱちさせるチック症だったが
一ツ橋を出都知事になり小説家でもある慎太郎のようには勉強はできなかった
8という数字を左上から書き始めたのには驚いた
普通は右上から書き始めに向かい右下に降りまた左に寄り元のところへ戻ってくる
中学生にもなってまともな8の字も書けないのかという呆れた驚きではない
水戸黄門にいきなり印籠を突きつけられたような驚きだ
その8の字の書き方は小学に上がる前のやっちゃんにちらし広告の裏を使って押し付けがましくぼくが教えたのだ
頑固なぼくは長い間なんでみんな揃いもそろってへんてこな8の字を書くんだろうと思っていたが 中学の時には普通の8の字を書いていた
出かけようと靴を履いている時やっちゃんのおかあさんから電話があり熱を出したので別の日にしてほしい言われた
別の日はやって来なかった やっちゃんとはそれきりになった 三回教えただけだった
間違って教えちゃったけど正しい8の字はこう書くんだよ
と告白する機会も失われた
先の田中典子先生という詩の中で
年齢差というものはどちらかが死なない限り広がりも縮まりもしないと書いたがこれはおかしい
ぼくの兄はぼくが52の時61で死んだがそして今ぼくは58だがぼくと兄との年齢差は3歳ではなく9歳のままなのではないか
年齢差はどちらかが死んでも双方が死んでも変わりはしないのだ
この場を借りお詫びして訂正します
生きていればやっちゃんは今55でぼくと3歳違いだがどんなふうに8の字を書くのかは
知らない




 

2020年10月12日月曜日

山田太一の3冊 その2 遠くの声を捜して

11段目4番

 田中典子<ふみこ>先生

 
 
誰に言われたわけでもないのに
小学高学年の頃から詩を書き始め
大学ノートにいっぱいになったそれを
サトーハチローに送り
詩集にしてくれと頼み込んだ
忘れた頃にサトーハチローの主宰する木曜会から葉書が届いた
もっともっと勉強した方がいいと思うが、どうしても本にしたいのだったら自費出版という手がある、もしノートが必要なら切手代00¥を送れとあった
顔から火が出たのがはっきりわかった
中学二年になり田中典子先生に教わるようになってから概ね4だった国語の成績が5になった
田中先生はぼくをえこ贔屓した
正義感の強い先生は否定するだろうがテストの点が平均を下回った学期も評価は5のままだった
先に書いたアル中楽天家ルー・ジャクソンという詩は、夏休みの課題で提出したルー・ジャクソンに捧げる歌という作文が土台になっている
返却されだいぶ経ってから、あの原稿をもう一度見せて欲しいと言われた、学校の机の奥に突っ込んだままになっていると思っていたそれはどこを捜しても出てこなかった
あなた自身が書いたものなんだからもっと大事にしなきゃだめじゃないの、と思いのほか強い口調で叱責された、先生はあの作文を気に入ってくれたのだ
女の国語の教師に一つのイメージがある、整った顔立ちのオールドミスが多く太宰治を憎からず思っている、というものだ
田中先生は正統派の美人だった、そして独身だった、授業中ブラジャーのヒモが肩口からはみ出ていても気がつかないような人だった、たとえば生徒の誰かにそれを指摘されても歯牙にもかけなかった
中学の教科書に載っている太宰の小説は走れメロスだったが、その授業の時は肩に力が入るのが傍目からもわかった
高校に入って詩集を作るようになった、一人だと量に限りがあるので友達を脅して書かせ日向没弧という同人誌にした
わらばんしにガリ版刷りし表紙と裏表紙に白い紙を使った、あの当時わらばんしが二枚で一円白い紙が一枚一円だった、日曜日に宇都宮へ出かけ映画を見たあと、詩集一冊百円です、と書いた紙を首からぶら下げ横断地下道や足利銀行馬場町支店の前で売った
高校で印刷するのはまずいと判断し、中学時代の担任の生井先生にお願いして宿直の時に押しかけ刷らせてもらった、一号につき二百部刷り、一冊を生井先生に進呈しもう一冊を生井先生から田中先生に渡してもらうようにしていた
その母校の東中学校からアンケート用紙が郵送されてきた、あなたの経験を元に受験生にアドバイスが欲しいというもので、担当責任者が田中先生だった、用紙の裏側に、毎号の詩集のおすそ分けありがとう、初めの頃はコトバのカラ回りが気になったけど、最近のいいですね、素直なあなたの心が見えます、と書いてあった
たったこれだけの文章だがもしこの言葉がなかったら、まちがいなくこのとても詩とは呼べないだらだら愚駄愚駄文は書いていなかった
東京に出て何年かのち、田中先生はベイルートの日本人学校で教えてると風の便りに聞いた 日本には戻ったはずだがその後の消息は知らない
ぼくが中学だった時、田中典子先生はいったい幾つだったのだろう、調べれば分かるだろうが時間を節約し40ということにしよう、年齢差はどちらかが死なない限り拡がりも縮まりもしないから、生きていれば先生は83ということになる




2020年10月8日木曜日

山田太一の3冊 その1 飛ぶ夢をしばらく見ない

 11段目3番

アル中楽天家ルー・ジャクソン


ルー・ジャクソン、1935年米国ルイジアナ州に生まれる、昭和41年から3年間サンケイアトムズの外野手として活躍、昭和44年5月17日午前0時5分急性膵臓壊死のため東京西新橋の慈恵医大病院にて死亡、33歳黒人
記録を調べてみると、彼から1年遅れで入団したデーブ・ロバーツの方がずっと上だが、何でもないライト前ヒットなのに素知らぬ顔で2塁へ突進する無謀な走塁と、時折バックスクリーンに叩き込むピンポン玉のように空高く舞い上がるホームランを覚えている人は多いと思う
親類がなかなか現れず仕方なく球団が葬式をだしたが、その時の監督別所毅彦の弔辞は楽天家のルーというフレーズで始まる
楽天家のルー、お前は他国で一人死んでいった
楽天家のルー、お前のディナーはビールに焼き鳥
人は誰もがお前を楽天家という
ひとよんでアル中楽天家
ルーの内臓はめちゃめちゃだった
お人好しのルー、お前は人を疑うことに興味がなかった
お茶目なルー、ホームラン賞のビールを大事そうに抱えて
誰もお前を憎めなかった
誰一人お前の飲酒癖には立ち入れなかった
女好きのルー、堀の内やすらぎ館がお前の寝場所
おとぼけのルー、お前にゃ妻子があったはずだが
ひとはみんな口を揃えて言う、楽天家のルーと
さようなら、あの無謀な走塁で天国の遥か彼方へ駆け抜けてくれ