23段目3番
息子よ
「もうぼくも年だし、死ぬ間際に何て言おうかなんてこと、よく考えるんだ」
という息子の声が聞こえてきた
俺の血が流れている息子、ないし娘がこの世にいる確率は限りなく0に近いから、これは夢か、俺自身のデッチあげか、神様のヤラセだ
「正直に言いましょう、おとうちゃんは数々の嘘を重ねてきました」
今度は、二年か三年か四年前に死んだ親父の声だ 和解の手を差し伸べてきたのだろうか
親父のいる家の敷居は(二度とまたぐものか)と固く誓った、あの夜のことは今でもよく覚えている
覚えちゃいるが、すべての敷居を勘定にいれれば、一千万回はまたいだろう
敷居を枕に寝たこともあった
小学校の低学年までは尊敬すらしていたのに
ある人に言わせると、俺の後姿は親父に生き写しらしい
一般的には、年を取れば取るほどに、父親の気持ちが分かってくるんだそうだ
別に喧嘩したわけじゃないからな、和解も誤解も後悔もない
それに比べ母親は、一番大切な人だ
一番に愛した人ではないが、断トツで好きだった人だ
ただ一人、心を開いた人だ
「今も許しを乞いたい人だ」
新派臭くなってきたが、おふくろが死んだ時
これで自由だ、誰憚ることなく変態になれる
と思ったのも事実だ
おっと息子を忘れていた
限りなく透明に近い存在の息子よ
死に行く時の捨てゼリフは決まったのかあ
僕って何?
僕って何?
ガキの頃、その気になれば
総理大臣にも宇宙飛行士にも、簡単になれると思っていた
勉強すれば、すぐ一番になれるとも思った
中学一年の時、競馬の騎手を夢見た
体重で断念した
中学二年の時、船乗りになろうと鳥羽商船から入学資料を取り寄せた
視力でひっかかった
中学三年の時、卒業したら東京に出てラーメン屋の出前持ちをしながらボクサーになると宣言した
反対され仕方なく高校へ行った
上京して二年目に、青山杉作記念俳優養成所という所に入った
訛りをしつこく指摘され、半年でやめた
次の年、横浜放送映画専門学院に行き脚本家を志す
まともなものは何一つ書けなかった
57歳の今、俺は何かしらになれたのだろうか
厚生年金は、22ヶ月払ったらしいが、定職についたことはなく、社会人になった感覚はない
一刻も早く世の中には出たかったが、社会人になりたかったわけではない
俺はいったい何者なのだろう?
夫にも旦那にもなったことはない
冷静に考えると誰かの恋人になれたこともない
おそらくこの先も無理な話だ
だが100%あきらめたわけではない
だっておいらは
いつも夢見るナマケモノ
なのだから
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