16段目3番
3.11
の時はタイのチェンマイにいた
テレビが映し出す映像は分別を超えていた
オームがサリンを撒き散らかした時は
京都の舞鶴だった
会社名は忘れたが、自動車の窓ガラスを作る工場で働いていた
(こんなことしている場合じゃない)と1週間でやめた
9.11は茨城県下妻市にいた
山一工業の寮から歩いて5分のトステムで働いていた
サッシを押し出した型枠にこびりついているアルミニウムを、苛性ソーダで溶かす作業に従事していた
こんなことしている場合じゃないと思わないでもなかったが、やめたりはしなかった
阪神淡路はバンコクで知った
東武新大平下駅の片側に広がる、日立の工場で働いたことがあった
工員専門の人買会社を通してだ
働くのは、すべからくタイへ行く資金稼ぎのためだ
研修に来ていたタイ人たちと仲良くなった
スキンヘッドにして、まだまもなかった
「ぼくは一休だ、一休と呼んでくれ」と彼らに強要した
研修の名目だったけれど、彼らは普通に働いていた
ぼくの日当が1万円で彼らは3千円だった
彼ら彼女たちを日光に案内した
それ以降の数年間は、タイに行けば、まず彼らを訪ねるのが通例になった
バンコク市内からパークナームปากน้ำ行き29番のバスに乗って1時間もすると、右手に工場が見えてくる
そこはもうサムットプラカーンสมุทรปราการで隣県になる
その日も正門の守衛室前で待っていると、彼らは連れ立ってやって来た
いつもは1人1人バラバラに集まるのに
彼らは明らかに興奮していた
口々に何か喚いている
「ペンディンワイแผ่นดินไหว」と聞こえる
ペンディンワイは地震だ 1人が新聞を面前にかざした
断ち切られた高速道路の残った先に 車がかろうじて引っかかっていた
唖然とした
工場対面の飲み屋で軽くやった
「一休は歌が好きだから」と2軒目はカラオケ屋になった
ピアノ弾きもギター弾きもいて、キャバレーのような雰囲気だ
研修時、彼らの寮に遊びに行ったことがある
みんなで人間なんてを歌った
#人間なんてラララーララーラー#と彼らに繰り返してもらい
ぼくは拓郎よろしく#何かが欲しいオイラ#とがなり続けた
阪神淡路の夜は、どこに泊まったのだろうか?
カラオケ屋でお開きになったあと、どこへ帰って行ったのか?まるで覚えていないのだった
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