14段目10番
モハメッドアリのファイト
高校2年から3年になる春休み、那須の牧場で働いた
映画やテレビに出てくる牧場に桃源郷を見、佐々木譲のオール読物新人賞入選作鉄騎兵跳んだを読んで、郷愁に拍車がかかったのだ
電話帳でくじ引きするようにして大西牧場に手紙を書いた
うちは手狭で無理だがと、林牧場を紹介してくれた
林さんとも2,3回手紙のやり取りがあった
西那須野の駅で降り、指示された一本道を、まだかまだかと歩きながら「普通なら迎えに来るんじゃないか」と何度か思ったものだ
仕事は牛の糞の処理だった
まだ機械化はされておらず、林さんもピンク色の乳首に指を絡めて搾っていた
朝と夕方、ちびた竹箒を手に、牛の間を縫うようにして牛の尻尾の先に掘られた浅い側溝に、ひたすら糞を掃き落とす
ある程度たまると一輪車にスコップで積み、糞溜小屋へと運ぶ
10日間働いた
ある日、寮生活をしている高校生の娘が帰ってきた
おかみさんはノン子と呼んでいた
食事のとき、残り少なくなったぼくのご飯茶碗を見ると「おかわりは?」ときっと聞くのだった
昼間はすることがなかった
東京の大学へ行ってるという息子のギターをいじったりした
オートバイの音が聞こえてきた
外を見れば、男のオートバイに跨りノン子ちゃんはどこかへ行ってしまい、それきり戻って来なかった
帰る日の朝になった 1973年の3月31日だ
交通費の封筒を渡された 本当に交通費だけだった
5時間半糞まみれになって働いたのに
母は「馬鹿にしてる」と長い間本気で怒っていた
「悪いんですけどテレビ、見せてもらっていいですか?」と思い切って言った
炬燵の上の新聞のテレビ欄にモハメッド・アリの名前を見つけたのだ
ソニー・リストンとの試合は見てないが、徴兵拒否でライセンスを剥奪される前の何試合かは、リアルタイムで見ている
カシアス・クレイがモハメッド・アリに改名したのは1964年だ
勘違いかもしれないがその後もしばらく、日本のマスコミはカシアス・クレイと言っていたような気がする
復帰した1970年以降の試合は全部見ている
往年の蝶のように舞い、蜂のように刺すスピードは失われていた
そしてついにジョー・フレージャーに敗れてしまう
もし交通費に色がついてたら「テレビを見せて」とは言わなかったに違いない
林さんとおかみさんは何処へか消えてしまったが、試合は最後まで見た
ケン・ノートンに判定で負けた
翌年高校を卒業した
もちろん牧場に就職することはなく、おやじのコネで茅場町共同ビル3Fの産業新潮社に勤めた
そこを3か月で辞めた後はバイト生活に明け暮れた
アルバイトニュースに仕事はいくらでもあった
1週間2週間の短期のものを選ぶ
それでも最後までやりおおせるのは、3つに1つだった
キャバレーのウエイター、参考書のセールス
1日で辞めたが、京浜蒲田のアーケード街に開店したロッテリアでパテを焼いたこともあった
目の前がカギ屋だった 大家の武内さんの店だ
原宿でも働いた マーケティングなんたらカンタラという会社だ
男と女の比率が2:8ぐらいだった 10日間だったが任期を全うした どうしてだろう?
一緒に働いた女3人の顔が、未だに思い浮かぶ
盆には信州菅平高原桑田館で、ラグビー合宿の大学生の食事を作ったり食器を洗ったりしていた
これは1か月の長期だった
ちょっと静養してから日本女子大学に通った 生協で働くことにしたのだ
目白駅からポン女までバスが出る それに乗って行く
紺地の背中に白く丸く桑と染め抜かれた、桑田館の印半纏を引っ掛けてだ
同僚の古川さんと何度か乗り合わせた
同じ場所で働くのだからバスを降りても並んで歩いた
袴田というこすっからい男が「古川さんは結婚してるんやで」と頼みもしないのに告げるのだった
書籍部だったが、建物が書籍部として独立していたのか、生協の一画に売り場があっただけなのかは、よく覚えていない
だからモハメッド・アリとジョージ・フォアマンのキンシャサでの試合を映し出すテレビが、売り物だったか備え付けのものだったかは、判断できない
仕事そっちのけで、あっちこっち場所を転々とし、テレビを注視していた
アリは半年前フレージャーに勝って挑戦権を得た
下馬評は圧倒的にフォアマンだった
1Rからアリは、ノックダウンを恐れるかのようにロープを背にするばかりで、見ているのが歯がゆかった
あとから知ったが、それは作戦だった
打ち疲れだろう しだいにフォアマンがでくの坊になってきた
8R、ロープを背負ったまま、渾身のパンチがフォアマンを捉えた
どこに当たったかは見えなかった 膝から崩れ落ちていき、立とうとしたが立てなかった
ゴングが打ち鳴らされた
自分でもびっくりするほどの奇声を発していた
視線が集まった 責任者が跛をひきひき(足が悪いのだ)駆け寄ってきて「どいうことなの、いったい何を考えてるの!」と、どもりながら早口に言うのだった
それが原因かどうだったか、今となってはどうでもいいことだが、その日のうちにやめる決心をした
さらに翌年の秋
クサカリは大学2年だった 卒業するまで同じアパートに住んでいた
都内に就職したが、日光に帰り家業のほていや旅館に身を投じるまで、ずっと同じアパートだった
若葉荘と言い、丸ノ内線の新大塚駅から歩いて数分のところにあった
いったい何度出入りしたことだろう
あの頃アパートの部屋に電話を持ってる奴はいなかった
大家か管理人に取り次いでもらう
それが面倒で2回に1回は直接出かけた そして2回に1回は留守だった
その年の春から青山杉作記念俳優養成所の7期生になった
所長の中村俊一が座長の劇団仲間の4期生が数人、銀座8丁目の天國で働いていた
その絡みで8月から雇ってもらった 17時から21時半までの勤務だった
その日1975年10月1日は日曜だったはず
「出かけてしまう前に」と朝っぱらから若葉荘を訪ねた
運良くクサカリはいた
アリとフレージャーの3度目の対決があるのだ
我が家のテレビはだいぶ前、酔って小便を注ぎ、壊してしまった
アリはフレージャーにはいつも手こずるが、やはり闘い辛そうだった
とにかくしつこい 一進一退でどっちが勝ってるかまったくわからない
15R開始のゴングが鳴っても、フレージャーは座ったままリングに出てこなかった
セコンドが止めたようだ
アリが勝ったのだ 見応えのある試合だった
持参したウヰスキーは空いていた 3分の2はぼくが飲んだろう 時間が余っていたので冷蔵庫のビールも飲んだ
さて天國へ向かわねばならない
「よしっ!外でテッテ的に飲もう!」とクサカリが誘ってくれたなら、バイトなんぞ放り出したのに
「それで働けんか?」と聞いてきただけだった
新橋で降り、地下通路を通り高速道路の下に出ると、天國はすぐだ
「トニー(ぼくのあだ名)は帰っていいよ」
と同じ7期生の男が言った
「邪魔だから帰れよ」とも言った
秋田出身の色白の富樫何某で、最初から相容れないものを感じていた
しかしオーダーを2回間違えたのは事実なので、言われた通りにした
「何を偉そうに!」と大船行きの国電の揺れに、身を任せるのだった
夏休みが終わってから、養成所に出かける回数はどんどん減っていった
10月に正式にやめ、ついでに天國もやめた
天國へは1年後カムバックするのだが、洗い場にピンクの上っ張りを着た高校生がバイトに来るのは、まだ先の話だ
関連詩 牛舎 信州菅平高原桑田館 大森兄弟
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