2020年11月8日日曜日

浜口庫之助の5曲 その4 恍惚のブルース

 12段目3番

失われたパスポート 3


35年前、バンコクの路線バス運転手は、缶ビールにストロー突っ込んで右手で持ち、残った左手でハンドルをイラっていた

「いつからだろう?」 
お金を払って乗るわたくしたちも、車内での飲酒はご法度になった 
寺の境内で飲むのもいけなくなった 
行事や祭りに缶ビールはつきものなのに
その点、列車はいい 何しろ広い 食堂車もある 
長距離移動は列車に限る
下段より幾分安いこともあって、寝台は上の方を選ぶことにしている

ある朝、目覚めると3等車の硬い座席で傾いでいる自分を発見した 
急いで自席に戻ってみると、寝台は折りたたまれただった
またある時は食堂車での勘定が足らなくなった 
バンコク銀行のカードならある 
次の停車駅で改札を走り抜けATMの機械まで全力疾走した 
事なきを得たが、真横を走って道案内をしてくれたのは、食堂車のボーイだった

チェンマイーバンコク間は鉄道に頼っていたが、しょっちゅう遅れる
終点間近のランプーンで、もう目と鼻の距離なのに、まったく動かなくなってしまう
チェンマイ着が8:00の予定なら、昼過ぎになるのを覚悟しなければならない
バスだって遅れるが、1時間かそこらだし本数は無数にある
しだいにバスを利用することが増えていった

タイのビザはずうっとペナンで取り続けてきた
ノービザで1か月滞在できるようになるまでは、2週間だった 一息入れるのはビザを得てからだ
これからパスポートをなくした時のことを書く
調べたら、初めて作ったパスポートはあった
1985年インドへ行くために作った
半年の予定を2週間で尻尾を丸め、引き揚げてきた
「もう外国なんか行くもんか」と、しみじみ決意した
けれど、漢字があれば何とかなるかもしれないと、次の年、中国へ行った
 
上海で中学生や高校生が穿くような黒い半ズボンを買った
失くしたパスポートは、まさにそのズボンからこぼれ落ちた
当時パスポートは5年物だけだった
失くしたのは2冊目で、1992年くらいだろうと見当をつけたが帰国のための渡航書を引っ張り出して見たら1994年とあった

「MK4154483の日本人はパスポートを紛失した 以前の記録を検めてみる」とまず一つ目のスタンプが記し
1993年12月9日から1994年2月6日までのツーリストビザらしきのが、2つ目のスタンプ
2月3日に1ヶ月の延長をして有効期限が3月8日になったのが、3つ目のスタンプで、
4つ目は「不法滞在9日間900バーツの罰金を3月17日に払った」とある

ドンムアンを経ったのは17日だから計算は合う
国民年金を受給するのに、300ヶ月必要だが、海外で暮らした分はカラ期間として上乗せされる 
2度パスポートを失くしているので、法務省に出入国記録の開示をしてもらった
なぜか2002年の1月1日までしか遡れなかった
 
もし1994年3月2日に出国との記録があれば、自分の記憶に自信が持てる
日本を出てから1週間もしないうちに、失くしてしまったとずっと思いこんでいたが、話をややこしくしてしまったようだ 
帰国のための渡航書の、スタンプは無視して話を進めたい

例によってファランポーンからバタワース行き国際列車に乗った
スーツケースを引きずってたってことは、まだチェンマイにもバンコクにも、アパートを借りてないからだ
日本を発ったのはついこないだ
中華街のジュライホテルに4連泊した

路地奥の支那そばやで、一杯15バーツの油ギトギト「汁なし麺แห้งヘング」を食べた 
「บกบวกボクブアク」という葉っぱジュースを3杯は飲んだだろう
乗車して1時間程すると検札がある 
そのあとは食堂車にしけ込むことにしている 
たいてい一番乗りでウヰスキーの平瓶をなるべくゆっくりと飲む 
切符はいつも2等寝台の上段 
従って下段の乗客の方と、向き合って座ることになる
気兼ねするのを避け、食堂車に逃げるのだ 
酔って戻ればベッドは出来上がっていて、あとは寝るだけって寸法だ

ペナンでツーリストビザをダブルで貰ったら、チェンマイでタニン市場裏アパートを借りることになるだろう
いつものように酔った なんぼ飲んだかは覚えていない
気がつくとちゃんとベッドの上だ
朝方、車掌がマレーシアに入る乗客のパスポートを集めに来る それを思ってまず尻の隠しポケットのパスポートを探ったが、ない 
半ズボンの、どのポケットにもない 
タオルケットとシーツを引っくり返して裏返し、マットまで持ち上げてみたが、見当たらない
あり得ないことだが「もしや」と思い、網棚に載せた持ち込みができる大きさのスーツケースに手を伸ばそうとした、その時一つの映像がフラッシュバックした

列車のトイレだ 
小便か大便をしようと半ズボンをおろし、しゃがんだその時、パスポートが銀色の便器に吸い込まれていった 
列車のトイレは垂れ流しだ 血の気が引いた
「止めてくれ!」とおらんでも止めてくれるはずはない 
よしんば止めてくれても捜しようがない

1986年に買ったズボンを1994年に穿いてたってことは、丈夫で長持ちの当たりだからだ 
いたく気に入り、上の姉に内ポケットを付けてもらった 
側面に二つと尻に一つ
白と青のストライプ柄の生地だ 
うしろのは浅い 
両側は深いが、幅が狭くパスポートは押し込めるものの、取り出すのに数分かかってしまう 
それで尻の方に入れていた
注意を怠ったことはなかったはずだが一瞬のことだった 
眠ってるうちに酔いがぶり返し、忘れてしまったのだ
 
思い出したからにはパスポートが出てくることは、もうない
列車はペダンバサールに到着した
一応タイ側の検問所で事情を説明しようと、乗客が少なくなるのを待っていた
「しゃがんだら便器の穴に落っこちてしまいました」というタイ語を考えているうちに
「とにかく大使館だ バンコクに引き返すのが一番だ」
と結論した

タイ語を勉強しだしたのは、その1年後だ
スクムビットソイ120のバンナーのアパートから泰日技術経済振興協会(ソー・ソー・トー)の3ヶ月コース昼の部に通った 
27人のうちエホバの証人とぼくを除くと、すべて駐在員の奥様連中で、男は一人だけ 
それなのに誰も「ちょっかい」を出してくる気配がないので、2週間で辞めた 
その後も細々と独学を続け、ちょっとした日常会話なら困らなくなったのが50過ぎだ

ペダンバサールの駅舎を出てると、向こう側へと渡る跨線橋のたもとにトゥクトゥクがたむろしていた
「ハジャイ、ハジャイ!」
と声を張り上げた
連れていかれたバス停で、ハジャイ行きのバスを待つ時間のなんと長かったことか
駅でバタワースから戻ってくる国際列車を待ってもよかったのだがじっとしているのがイヤだった 
ハジャイに行けば、バンコクへの列車数が3本か4本増える
ペナンでビザを取った後は、宿まで迎えに来てくれるワゴン車に乗り、ハジャイへ向かうのが、お決まりになっていた

鉄道駅から広い1本の道が伸びている 
それに数本の道路が交差してハジャイの街を形作っている 
バスターミナルを地図で見ると国鉄駅からだいぶ下側になるが、歩けない距離ではない
バンコク行きの切符を1分でも早く手にしようと、駈けるように歩いた

発車まで4時間以上あったのでに入った
駅へ向かう広い通りの右側にある 
駅まで歩いても3分とかからない 
ハジャイに来れば必ず立ち寄る 
麺もあれば、ご飯もの、つまみ、何でもありの食堂だ 
1泊する時は連チャンも辞さなかった
金勘定している中年女以外、すべて少女だった
 
クイティオをゆがくのも、氷を運んでくるのも、空いたテーブルの食器を下げるのも、その店でうごめいているのは、ローティーンといっていい女の子なのだ 
怪しい店なのかと疑った 
荷物を持って奥に消えた客が、なかなか戻って来ない 
どういうわけか全員が小柄なのでタイプではないが、心騒いでしまう 
2階に、あるいは厨房の先に、特別な部屋があるのではないか?
そのうちに「荷物の一時預かり」も商売にしてるのが分かってきた

疑いが100%解消されたわけではないが、偵察を兼ね、まずはウヰスキーの平瓶を頼み、あとは2本目を飲むのが通例になった
そして仕上げに発泡スチロールの容器に、ご飯を詰め込んでもらう
弁当は駅構内でも売っているが、なるべくならそこに金を落として印象を良くしたい
発車時刻は押し並べて夕方の遅い時間だから、なんだかんだしているうちにベッドメーキングになってしまう 
帰路、食堂車に行くことは滅多にない

パスポートを喪失したのだから「しょげなくては」とその日は1本だけにしておいた
翌朝列車を降りると一路、ペッブリタットマイの日本大使館を目指した
鉄製の両開き扉の左側に守衛所がある
「パスポートをなくしてしまったので再発行をお願いしたい」
通じたのかどうか、タイ人の守衛は受話器を手にした
しばらくすると日本人がやって来て
「ここでパスポートは取り扱っていない、アソークの領事館の方へ行くように」と言った
首都にあるのが大使館で地方都市のが領事館だと、認識してきた
どうもそうではないようだ

職員らしいのは「何番のバスに乗れ」とかの指示をくれたが、たいした距離ではないだろうと歩くことにした
サーミットタワーを見つけるまでに3時間要した 
紛失証明書がいると言われ、ルンピニ警察署を捜した 
なぜルンピニ警察署でならなかったのかが、思い出せない
やはりたどり着くのに3時間かかってしまった 
おかげでルンピニ公園の中身には詳しくなった

ジュライホテルをベースに領事館詣が始まった
いったい何回、サーミットタワーのエレベーターに乗り込んだことだろう
大使館ないし領事館は海外で困ってる人に手を差し伸べてくれる所と理解していたが逆に「突き放すのだ」と、身に染みてわかった
再発行してもらうには有効滞在期間が60日以上必要だ
ビザを取りに行く途中で失くしたので当然ペケ
代わりの帰国のための渡航書を手渡してくれたのが3月15日だった 
3月22日まで使えるようだ

つらい日々だった 
一つだけ有難いことがあった
同じビルの何階かで、週一か月一のペースで日本映画の無料上映があるのだ
翌年、10回は通ったろう
富田靖子「BU・SU」もそこで見たのだった




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