12段目1番
失われたパスポート 1
これまでに2度パスポートを失くし、失くしはしなかったがそう思い込んで再発行の手続きをしてしまったことがある
高卒で上京して1年後無試験だった青山杉作記念俳優養成所という所に入った
コロナ禍で図書館が閉鎖されDVDが借りられなくなった
電気代節約のため暗くなっても明かりを点けず、寝るまでの時間をDVDで潰していた
「ええいままよ」と日本映画が9本入ったのをブックオフで買ってしまった
そのうちの1本が「雨月物語」
10回は見たはずだが青山杉作が坊さん役で出ているのに初めて気づき、その顔を認識した
けれど、彼と養成所の関係は今もって分からない
そこは半年で辞めたが、一番親しく交わったのが大将だった
彼の伝手でいつしか渋谷道玄坂の居酒屋<ちっちゃな赤鬼>でバイトするようになり、つき合いは続いた
やがて大将の弟ヒロヨシが上京し養成所の8期生になった
ヒロヨシが我がアパートに居候した期間は短かったが、いつのまにか彼も<ちっちゃな赤鬼>で働き出し、つき合いは続いた
上京して3年目に横浜放送映画専門学院に2期生で入った
1期生に大将のともだちのサイちゃんがいた
養成所に通っていた時、7期生のみんなと三浦海岸へ遊びに行ったことがある
なぜかサイちゃんもやって来たのだった
それで今村昌平がつくった映画学校の存在を知った
2年生になるとサイちゃんは留年し同級生になった
ゼミが違ったので接点は、ほとんどなかった
気がつけばサイちゃんも<ちっちゃな赤鬼>で働いており、つき合いは続いた
養成所と劇団仲間の主宰者は同じ中村俊一なので、大将は仲間に所属し<ちっちゃな赤鬼>で働く合間合間に全国を回っていた
しばらくし見切りをつけたのだろう、倉敷に帰った
ヒロヨシは新藤栄作と1本芝居を打ったものの、身の置き所がなくなったのか、大将から遅れること5年して帰って行った
おふくろが死んだ時、49日を待たずにタイへ飛んだ
先立つものがなかったが、サイちゃんから借りた
交通事故で右目か左目の視力が失われ、その慰謝料が残っているのを知っていた
慰謝料のやり繰りでしぶとく東京にしがみついていたが、55になるかならない頃、やはり帰ることになった
その前に大家のマギーさんと日光を訪れた
この人も不思議なことに<ちっちゃな赤鬼>で働いたことがあった
市民なら入湯料200円の山口温泉に案内した
休憩所と食堂を兼ねる大広間で喋り散らすサイちゃんの声が異様に大きい
宥めるような心持ちで
「倉敷には行ったことないなあ、今度タイからの帰りに寄ってみようかな」
と口走ったらあっという間に約束事になってしまった
大将とヒロヨシには2人のお姉さんがいる
下のトミコちゃんがヒロヨシに携帯を買い与え料金も支払っていた
それで日本と連絡を取り合い、関空から倉敷までバスがあるのを知った
そのアクセスをネットで調べた
飛行機搭乗時は乗る前も乗ってからも、意識がある限り酒を飲むことにしている
その時もまだ酔っていた
外の空気が吸いたくなったので、運転手に発車時刻を確かめてから岡山駅のトイレで用を足した
戻ると時間を1分と過ぎていないのに、バスがないのだった
なりふり構わずバス会社に電話し
「スーツケースを取っておけ!」と喚いた
ヒロヨシには「電車で行くが、着いたらまた電話する」と言った
タイで買った携帯は日本にかけられるが、日本では使えない
公衆電話を捜さねばならなかった
改札でヒロヨシは待っていた
もう一つの出口で待機していたサイちゃんを呼び出し、荷物を受け取ってから、近くの中華やで飲んだ
「冬は寒いだろうな」と思わせる風通しのいい平屋の貸家で、さらに飲み続けていると、仕事から大将が帰ってきた
大将とは20年振り、ヒロヨシとは15年振り、サイちゃんとは2年振りの再会だ
そのうちに大将とサイちゃんが喧嘩を始めた
2人はよく喧嘩する
それは激しくどんなに酔っていようが震え上がってしまう
真夜中だというのにサイちゃんは自宅へと帰ってしまった
起きると大将は仕事に出かけていた
何泊したのだろう?
2日目か3日目にスナックへ行った
大将もヒロヨシも総入れ歯だ
大将はそれを外し女の子を笑わすのだった
2人の両親は日光見物に来たこともあって顔を知っている
おとうさんは莫大な借金を残して死に、入院中のおかあさんは胃瘻で意識がない
帰郷後大将は大森ブロックを立て直そうとした
果たせず建設会社に勤め、かなりのポジションを得た
しかし喧嘩して辞め、今は別の建設会社で働いている
糖尿病を患っているヒロヨシはおさんどんをしながら週に何回か母親のところへ赴く
パスポートが失くなっているのに気づいたのはいつだったろう?
大将もヒロヨシもおまけにサイちゃんまでスーツケースを何度も引っくり返したが出てこない
バックパッカーという言葉に、嫌悪を感じる男だが、移動中パスポートをスーツケースに潜り込ませるようなバカな真似はしない
巾着のような黄色の袋に入れ、紐を6ケ100円の高級安全ピンで留め、ズボンの内側に垂らし込んでいる
その袋ごとなくなっていた
だけど日本で良かった 実害はないだろう
日光まで戻ってから、ヒロヨシから電話があった
「大将から頼まれちゃったよ、貸した1万円を書留で送るという約束はどうなっているのかって?」
借りた記憶はなかったが、詫びと共に送った
大将から懇切丁寧な返信が届いた
足利銀行から電話があった
鹿児島駅の駅長室からぼくのATMカードが紛失物として「郵送されてきた」と言う
再発行の手続きは<済ませて>ある
「それはそっちで処分してくれ」とお願いしたら
「それは困る」と言われ、受け取りに出向いた
パスポートはどこかに消えたままだ
それから半年してサイちゃんが入院し、2ヶ月後に多臓器不全で死んだ
その1年後建設現場で作業中居眠り運転のダンプカーに突っ込まれ大将が死んだ
そういったことをヒロヨシからの電話で知った
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