11段目4番
田中典子<ふみこ>先生
誰に言われたわけでもないのに小学高学年から詩を書き始め、大学ノートにいっぱいになったそれをサトーハチローに送り、「詩集にしてくれ」と頼み込んだ
忘れた頃にサトーハチローの主宰する木曜会から葉書が届いた
「もっともっと勉強した方がいいと思うが、どうしても本にし
たいのだったら自費出版という手がある もしノートを返し てもらいたいなら切手代¥××を送れ」とあった
顔から火が出たのがハッキリ分かった
中学二年になった
田中典子先生に教わるようになってから概ね4だった国語の成績が5になった
田中先生はえこ贔屓した
正義感の強い先生は否定するだろうが、テストの点が平均を下回った学期も評価は5のままだった
先に書いた「アル中楽天家ルー・ジャクソン」
という詩は、夏休みの課題で提出した「ルー・ジャクソンに捧げる歌」という作文が土台になっている
返却され、だいぶ経って「あの原稿をもう一度見せて欲しい」と言われた
学校の机の奥に突っ込んだままになっていると思っていたが、どこを捜しても出てこなかった
「あなたが書いたものなんだから、もっと大事にしなきゃだめじゃないの」と
思いのほか強い口調で叱責された
先生はあの作文を気に入ってくれたのだ
女の国語の教師に一つのイメージがある
「整った顔立ちのオールドミスが多く太宰治を憎からず思っている」
田中先生は正統派の美人だった
そして独身
授業中、ブラジャーのヒモが肩口からはみ出ていても気がつかないような人だった
生徒の誰かにそれを指摘されても、歯牙にもかけなかった
中学の教科書に載っている太宰の小説は「走れメロス」だった
その授業中には肩に力が入るのが傍目からもわかった
高校に入って詩集を作るようになった
一人だと量に限りがあるので友達を脅して書かせ日向没弧という同人誌にした
わらばんしにガリ版刷りし、表紙と裏表紙に白い紙を使った
当時わらばんしが二枚で一円、白い紙が一枚一円だった
日曜日に宇都宮へ出かけ映画を見たあと<詩集一冊百円です>と書いた紙を首からぶら下げ、横断地下道や足利銀行馬場町支店の前で売った
高校で印刷するのはまずいと判断し、中学時代の担任生井先生にお願いし、宿直の時に押しかけ刷らせてもらった
一号につき二百部刷り、一冊を生井先生に進呈し、もう一冊を生井先生から田中先生に渡してもらうようにしていた
母校の東中学校からアンケート用紙が郵送されてきた
「あなたの経験を元に受験生にアドバイスが欲しい」というもので、担当責任者が田中先生だった
用紙の裏側に
「毎号の詩集のおすそ分けありがとう 初めの頃はコトバのカラ回りが気になったけど、最近のいいですね 素直なあなたの心が見えます」
と書いてあった
これだけの文章だが、もしこの言葉がなかったら、間違いなくこの詩とは呼べないだらだら文は書いていなかった
東京に出て何年かのち、田中先生はベイルートの日本人学校で教えてる、と風の便りに聞いた
その後、日本に戻ったはずだが、消息は知らない
ぼくが中学だった時、田中典子先生はいったい幾つだったのだろう?
調べれば分かるだろうが時間を節約し、40ということにしよう
年齢差はどちらかが死なない限り拡がりも縮まりもしないから、生きていれば先生は83ということになる
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