2020年5月24日日曜日

คำภีร์カムピーの5曲 その4  มีหวังせつないものごころ

7段目10番
たった1キロ


で棄権してしまった日光杉並木マラソン以来、ほぼ4ヶ月振りにレースを走った
レースを主催するサムカンペーン小学校までアパートから20キロはあるので、前日の夕方にママチャリに跨って会場入りした
150バーツを支払ってゼッケンを受け取り、係員に導かれ宿泊所となる使われていない教室へたどり着く
当人の姿はないが、先客が2人いるようだ
係員は門を出て右に曲がれば、そこがマーケットなのだと言う
市場の場所まで教えてくれるなんて(何てお節介なんだろう)と、恐縮したが寝るには早いので行ってみた
日本語でいうところの歩行者天国だった
かなりの人出でどこまで行ってもキリがないので、引き返す
トマトプリックキーヌーを買った
学校の対面の雑貨屋兼酒屋でビールを買い栓を抜いてもらって、店先に1個だけ据えられた石造りのテーブルで飲みだす
この時間に教室に戻れば先客2人も帰っていて、いろいろ話しかけてくるかもしれない
それが面倒だった
実を申せば知り合いが昼時にビール抱えて訪ねてきたので、前日も酔っている
だが3本までならレースに影響はないはずだ
さっき目をつけておいたパブレストランっぽい店に移動する
このブログに「オイさんに捧ぐ」という詩を書いたことがある
サンカンペーンはオイさんが生まれた街だ


オイさんに捧ぐ 再録

今はもうつき合いはないが、昔、とあだ名をつけた
ぼくよりもだいぶ若いタイ人の友人がいた
哲の彼女がオイさんだった
二人を結婚前から知っていたし離婚した後も、知っていた
オイさんには妹と弟が一人ずついて、弟はおかまだった
オイさんのご両親と一緒に、ご飯を食べたこともある
まったくの偶然だが離婚後のオイさんが、ぼくの借りたアパートの敷地内で洗濯屋を営んでいた時期もあった
ひとは老いる
オイラも老いる
老いをホイルで包みフライパンにオイルはしかずボイルせず
老いを炒る
弾けてはくれない
オイスターソースをぶち込んでも
おいしくはならない
老いては子に従えと言ったところで
オイラに子はない
老いると置いてきぼりにされがちだが
置いていくものは
何もない
哲の糖尿病が悪化し、つき合いは途絶えた
オイさんのその後も知らない
オーイ、オイッ!
老いては死に従い給え


ふたりと出会ったのは30年前のソンクラーン水かけ祭りの初日だった
正方形の中がチェンマイの旧市街だが、右下外側角っこのソムチャイ歯科が診療所を構えるアパートの4階に、初めて部屋を借りた 
起きると、どうも様子がおかしい
外がざわついている
出てみるとそこら中人だかりで、みんながみんな水を掛け合っている
まだその時、ソンクラーンの存在自体を知らなかった
これはいったい何なんだと訝しりながら、シードンチャイ通りに出、現在も「すし一番」の隣にしぶとく生き残っているぶっかけめし屋を目指す
人々はこの騒ぎにまったく無関係のぼくにまで、容赦なく水を浴びせてくる
中でもひどかったのがめし屋の斜め向かいに陣取っていた、10数人のグループだ
行く手をふさぐと、氷入りのバケツいっぱいの水を頭からぶっかけたのだ
結局は、めし屋に何度も足を運び、ビールを買い込んでは貢ぎ、仲間に入れてもらって一緒に大騒ぎしたのだったが
そこに哲とオイさんのカップルがいた
オイさんがパーヤップ大学の3年生で、哲が2年だった
例によって泥酔し、哲が部屋まで担ぎ込んでくれた
翌日も翌々日もメンバーは入れ替わったが、哲と行動を共にした
だいぶあとになって、女5人のグループบุโดกันブドウカンが歌うขอไหัเมือนเดิม「そのままでいて」のプロモーションビデオに登場する女優が、オイさんにそっくりだったので驚いたことがある
オイさんはエレガントという言葉そのものだった
それから数年は哲との密度の濃い付き合いが続いた
飲み合いといった方が適切かもしれない
哲は下手をするとボトル2本を空ける男だった
ふたりの酒席にオイさんが加わることはなかったが、なんだかんだと顔を合わせる機会は多々あった
プーケットのホテルに就職が決まったオイさんを、哲とアーケードから見送ったこともある
1年もしないうちにオイさんは舞い戻ってしまったが、卒業するとふたりは結婚した 
哲はマーケティング関係の会社に勤めたが、こまめに職を変えた
覚えているのはチェンマイ鉄道駅からすぐのニッサンの営業所だ
近くで何度か待ち合わせをした
チェンマイランドでワインの卸売りをしていた時期もある
離婚したのはその頃だ
その後ナイトバザールを少し入ったところにアンティークの店を開いたが、いつしかレストランに変わり、次には改装して郵便物を扱うオフィスになった
私設郵便業がフリーペーパー「ちーお!」に取り上げられたこともあった 哲とは疎遠になっていた
当時携帯はなかったから、日本へ帰る度に哲の職場とアパートの電話番号は控えていった
哲は住むところも頻繁に変えたし、ぼくだって借りるアパートは何度も変えた
だがお互いの行き来が途絶えることはなかった
こちらから連絡せずともチェンマイについて1週間もしないうちに、どこかで偶然に出会うからだ
歩いていると自転車に跨っていると、オートバイをあるいは車を運転している哲が見つけ声をかけてくる
もちろんオイさんが一緒のこともあった
覚えているだけでそんなことが6回はあった
チェンマイを訪れた姪を、哲のレストランに案内したことがある
哲と会うのは久し振りだった
例によって泥酔し意識不明となるのだが、哲は車でぼくをアパートへ、姪をゲストハウスへと送り届けてくれた
姪は「哲さんはいい人だ」と言った
(そりゃそうさ、同感だ)
哲は貧乏ゆすりの達人だった
いつもピリピリしていた
哲とオイさんにはแตงโมテングモウ<西瓜>という娘がいたが哲が引き取った
西瓜ちゃんを連れ、突然アパートへ現れたことがある
2、3日前にぼくがそのアパートへ入っていくのを見かけたらしい
その頃はチェンマイに来ても、哲に改めての連絡はしなくなっていた
小学生になる来年からは親戚に預け、バンコクの小学校に通わせるそうだ
哲と最後に会ったのは3年ぐらい前だろうか?
やはり偶然だった
ターペー門の内側のところでナナハンに乗った哲が、ぼくを見つけた
近いうちに飲もうよと誘ったが「糖尿でもう何か月も飲んでない」
と言ったのだ
しばらくしてまた例によって泥酔し、哲のオフィスに近いホテルのコーヒーショップから
「今ここにいるから出てこい」
と電話したが梨の礫だった
思えば哲とつるんで飲みまくっていた時期
こうしていればオイさんに会えるチャンスも増えるはず
という下心があったのは確かだ
哲は本心を潜在意識でもって敏感に読み取った
その潜在意識がチェンマイの街をうろつくぼくを、偶然という形で発見させたのだ
オイさんの洗濯屋はシリマンカラジャンソイ7ガードスアンゲーオの入り口、ンチャマアパートの一画にあった
「ヒデオ、ヒデオでしょう? わたし、わたしなんだけど」
オイさんの方が気づいて声をかけてきた
オイさんは太ってやつれていた
ぼくが日本へ帰るのが先だったのか
オイさんが店をたたむ先だったか
どうもその辺がはっきりしない
とどのつまり、パブレストランだけで4本のビールを飲んでしまった
酒のせいにはしたくないのでレース結果は書かない



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