2019年9月24日火曜日

溝口健二の5本 その2 近松物語

1段目12番
かちゃんへ

茶の間の真ん中に掘り炬燵があり
母専用の箪笥の前が父の定位置だった
母は台所寄りつまり土間側に座った
ぼくはあっちこっち誰かの隣にもぐりこんだ
母の箪笥の一番上は戸棚になっていて
裁縫道具や風呂敷などの小物類
それに財布もしまわれていた
兄はちょくちょく母の財布からちょろまかしたらしい
そんな勇気はなかったけれど、一度だけ百円を抜き取ったこと
がある
何のための百円だったかは覚えていない
後悔したが
それが使う前だったか後だったか
また使ったかどうかもはっきりしない
母に「百円知らないか?」と聞かれたような覚えがある
それで後悔したのだろうか
とにかくその時、手元には百円玉があり
これを一刻でも早く返さないとこの世は終わってしまう
そんな恐怖に捉われていた
朝を飛び起きて、封筒を引っ張り出し (かあちゃんへ)と書き
百円を入れた
ところが母の姿が何処にもない
「かあちゃんは?」と姉か誰かに聞くと
「畑へ行った」と姉か誰かが言った
駆け出していた
400メートルくらい先で大きな籠を背負った母を見つけた
さらに走った
ぼくは声をかけただろうか?
母が振り向き、こっちを見た
近寄り「これ」と封筒を手渡し
目を合わせることもなく来た道を引き返した
そのまま一度も、後ろを振り返りはしなかった
母が、ぼくの背中をじっと見ているのがわかった
涙ぐんでいるのがわかった
大きくなって、母がこの時のことを話題にしたことがある
「一緒に行くかって声かけようとしたら、秀雄は背中向けて小
走りに行っちゃったんだよ」
封筒に、かあちゃんへと書いたつもりがかちゃんへとなっていて
よく下の姉のからかいの材料にされた





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