2019年8月25日日曜日

五木寛之の5冊 その1 朱鷺の墓

1段目6番


ばあちゃんは、おっかない人だった
機嫌が悪いと軒先に井の字に積んである二十センチほどの薪を、問答無用でま問答無用で幼稚園児のぼくに手当り次第に投げつけるのだ
逃げると見るや物干し竿を薙刀のように構え
薪タッポ背負ワセッツ
と言いながらどこまでも果てしなく追いかけてくる

おやじは人の意見には耳を貸さず死ぬまで我を通したが、ばあちゃんには頭がゃんには頭が上がらなかった
目を覆い耳を塞ぎたくなるような嫁いびりをその目で見その耳で聞いても何も聞いても何も言えなかった
湯呑みを箪笥に投げつけ、お膳を引っくり返し、スイカを土間に叩きつけるだ叩きつけるだけだった

小学校に上がるか上がらないかの頃
畳を裏返したら、ばあちゃんのヘソクリが出てきた
どうして(裏返そう)なんて気になったのだろう?
「神の声を聞いたのだ」としか答えようがない
千二三百円あって使いでがあった
親しくもない近所の誰それちゃんに大福を奢ったはずだ
約半分使って親の知るところとなり没収されたが、ばあちゃんには怒られなかは怒られなかった
ショックで寝込んでしまったからだ

お風呂を埋めるのは命懸けだった
どうにもこうにも熱くて入れず、ばあちゃんに気づかれないよう水量をぎりぎ水道の栓を絞り、鼻歌でカモフラージュしながら埋めていたら、どう嗅ぎつけどう嗅ぎつけたのか猪の如く飛び込んできて
このでれすけが
と背中を引っかいたのだ
そこはみみず腫れとなり長い間湯に浸かると沁みた
悔やしくて風呂場の壁のトタン板にえんぴつで(ばあちゃんのバカと書いた
カ)と書いた
トタンにえんぴつで書いた文字は消しゴムでは消えない
石鹸で洗い流しても、シンナーで拭き取っても、消えない

ばあちゃんは東京オリンピックの年、ぼくが小学三年の時死んだ
小学六年の時に風呂場を建替えるまで、えんぴつの字が色褪せる
ことはなかった

ばあちゃんの葬式で泣かなかったのは、ぼくだけだ
兄と上の姉はともかく「ついに死んだ」と共に手を取り喜び合った下の姉までた下の姉まで泣いたのには裏切られた気がした

寝たきりになってからばあちゃんは下の世話をおふくろ以外の人に託すのを人に任せるのを拒んだ
そんな理不尽な身勝手が罷り通ったのも、おふくろが甲斐甲斐しが甲斐甲斐しく看病したからだ

そのおふくろが(さめざめ)と泣くのを見るのは(もどかしく)歯がゆかった
歯がゆかった
五十を過ぎてから、ゆで卵の薄皮を剥がすような感じで分かってきたことがあきたことがある
ばあちゃんの血はおふくろには流れてないが、ぼくには流れているということるということだ
おやじとおふくろに血のつながりはないがおやじの血は今もぼくを脈打っぼくを脈打っている

消しゴムでいくらこすってもトタンに書いたえんぴつの字は消えない
えない
ビールをあさってまで飲み続けてもこの血が薄まることはない
ばあちゃんとおやじは貧乏人根性の塊のような人間だったが、その血がのその血がぼくにも流れている

それに気づいたからといって二人に対する感情に変化があったわけではない
けではない
自分以外の者を認めようとしないのも貧乏人根性の為せる業だ

この血とオサラバするには死ぬしかないが、それも満更じゃないと思えてくると思えてくるから不思議だ





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